コンバースの歴史とその先へ
Marquis Mills Converse (1861 - 1931)
マーキス・M・コンバース
ボストンの百貨店 ”Houghton and Dutton”で、6年間ゼネラルマネージャーとして働いた後 "Converse and Pike"で "WALES GOODYEAR RUBBER" という靴とラバーブーツの卸業をはじめ、これが大成功する。その後1900年に創業して間もない"Beacon Falls Rubber Shoe Company"のボストン店ストアマネージャーになる[2]。
1908年。自らの名前を会社名にした"THE CONVERSE RUBBER SHOE COMPANY"を会計士のJoseph S Capenと創業。[3]
ラバーブーツの製造業はその品質の良さも手伝って順調に拡大していく。
亡くなる2年前に「世界恐慌」が起こってしまい、コンバース社は1929年に倒産。その後営業権を譲渡する。健康上の理由で度々転職を繰り返したため、倒産直前には既に経営権が他人もしくは外部に譲っていた可能性も否定できない。
コンバースにおいてもスニーカーの歴史に置いても最も代表的で最もクラシカルな製法の一つ。バルカナイズド製法・加硫圧着製法・加硫釜製法などとも言われる。
縫製したアッパーに底面とサイドの未加硫ゴムを貼り込み、専用の釜に入れて100℃前後で1時間ほど高温で圧力を加えながら加熱することで添加した加硫剤が溶解・硬化し密着させる製法。未加硫ゴムが隙間に入り込み密着性が高くなる。ゴムの分子間結合が新たに作り出されるためより高い結着状態を得ることができ耐久性も高くなるのが特徴。最初期のバルカナイズド製法は底面だけの接着だったが剥離しやすいためサイドの部分にも補強をかねてラバーを張り込むの方法をとるようになった。
19世紀後半までバルカナイズド製法は当時需要が多かったゴム手袋・ゴム長靴が主流だったが、テニスなど紳士淑女のスポーツが一般化、またバスケットボールのような新しいスポーツが提唱されていくにつれ、各メーカーが、爆発的に競技人口=需要が増えたスポーシューズ製造に移行していくことになる。
また先見性のあったB.F.グッドリッチ社やファイアストン社などのゴム製造メーカーは、モータリゼーションが進む中、自動車用のチューブ入りタイヤ製造に着手。シューズ製造とともに開発と生産を行っており当時のアメリカでいかにゴム産業が盛んだったかが伺える。
チャールズ=グッドイヤーはフィラデルフィアで鍛冶屋を開業。一時は軌道に乗りかけた商売だったが、体調問題も抱え彼の事業は最終的には破産してしまう。その後発明家でもあった彼はゴム製品に興味を持ちはじめるものの、実験の結果はうまくいかず納品したゴムチューブを大量の返品されるなど新しい事業はなかなか軌道に乗らなかった。債権者から訴えられ刑務所に入ることもあった。その後、幾度となく破産を繰り返しながらもゴムの安定化に尽力する。
1839年。実験中に加硫ゴム製法(生ゴムに硫黄を混合させ加熱することで強度・安定性・弾性を確保する製法)を偶然発見。
この加硫製法でチャールズは1844年6月15日に特許を取得。加硫製法の発明により、ゴム産業は後世の近代工業に欠かせない基礎素材として発展することとなる。
チャールズは加硫ゴムを製法は秘密にして(偶然できたためまだ詳しく解析はできていなかった)代理人を通じ、当時英国で爆発的に売れていた防水コート「マッキントッシュコート」の共同開発者で発明家でもあったトーマス=ハンコックのもとへ加硫ゴムを届ける。しかしハンコックは表面に硫黄がついていることを解析してしまい、硫黄などの添加物の量や加熱する際の温度などゴムが安定する方法を解明。英国内で1843年11月21日に特許を取ってしまう。これはチャールズ=グッドイヤーが加硫法を解明し米国で特許を取るわずか5ヶ月前である。その後グッドイヤーとハンコックは英国における特許訴訟に発展する。
ハンコックはこの加硫法をマッキントッシュ用の防水生地に応用。これが現代でもマッキントッシュコートに使われる「マッキントッシュクロス」といわれる素材である。
また、現存するタイヤメーカーのグッドイヤー(Goodyear Tire and Rubber Company)もハンコック(Hankook Tire)も二人とは関係ない。
チャールズの発明後、当時の最先端だった”ゴム”素材は、彼が積極的にライセンスビジネスを展開した結果(と同時に無断特許使用商品も多く出回り訴訟問題も発生した)多数のラバーカンパニーがアメリカ東海岸、特にボストン近郊で誕生する。この時代に後のU.S.RUBBER / KEDSの原型になるゴムメーカーや、GOODYEAR / FIRESTONE / BF.GOODRICHなどの全米を代表するタイヤメーカーの多くが生まれている。
初めてそのバルカナイズド製法をつかってスポーツシューズを製造販売したのは米国ではA. G. Spalding(かその外注先)英国ではThe Liverpool Rubber Company(後のDunlop)と言われている。
■ 1843年 THE SAMUEL J LEWIS COMPANY( U.S.RUBBER )
→1846年 GOODYEAR'S METALLIC RUBBER SHOE COMPANY(U.S.RUBBER)
■ 1842年 THE L.CANDEE & COMPANY ( U.S.RUBBER )
■ 1843年 THE MEYER RUBBER COMPANY( U.S.RUBBER )
■ 1847年 GOODYEAR'S INDIAN RUBBER GLOVE Mfg. CO.(U.S.RUBBER)
■ 1867年 THE MISHAWAKA WOOLEN COMPANY (BALL BAND)
■ 1869年 B. F. GOODRICH CORPORATION
■ 1876年 A.G. SPALDING & BROTHERS
■ 1885年 THE GOODYEAR GOSSAMER COMPANY(FIRESTONE)
■ 1888年 COLCHESTER RUBBER COMPANY(U.S.RUBBER)
■ 1892年 THE UNITED STATES RUBBER COMPANY (KEDS)
■ 1892年 THE APSLEY RUBBER COMPANY(FIRESTONE)
■ 1896年 HOOD RUBBER COMPANY(B.F.GOODRICHと合併)
■ 1898年 THE GOODYEAR TIRE AND RUBBER COMPANY
■ 1898年 THE BEACON FALLS RUBBER SHOE COMPANY
■ 1900年 THE FIRESTONE TIRE AND RUBBER COMPANY
■ 1907年 WALES GOODYEAR SHOE COMPANY(KEDS)
■ 1908年 THE CONVERSE RUBBER SHOE COMPANY
■ 1921年 THE FIRESTONE APSLEY RUBBER COMPANY(FIRESTONE)
■ 1925年 THE FIRESTONE FOOTWEAR COMPANY
その多くはゴム手袋やゴム長靴、自動車用のタイヤの製造であり、コンバース社もそんな企業の一社として誕生した。
1917年にコンバースが開発したバスケットボール専用シューズ。Hi もしくは Hi-Topと呼ばれるハイカットタップと、1957年から発売開始された OX(オックスフォード)といわれるローカットタイプがある。海外では、ALL-STARの他に、CHUCK TAYLOR(チャックテイラー)やCHUCKS(チャックス)と呼ばれることもある。
1891年にYMCAのジェームズ・ネイスミスで博士が冬にできるトレーニングプログラムとして考案したバスケットボール用のシューズとして開発。初期には"ALL STAR"に限らず多種の色違い・ソール違いの同デザインモデルが存在した。
その後プロバスケットボールプレイヤーだった Charles Hollis "Chuck" Taylor ( チャールズ・H・テイラー)が選手兼広報活動を行い、全米のバスケットボールプレイヤーに広がる。1936年のベルリンオリンピックから正式種目に採用された際に全選手に "ALL-STAR" を提供した。
1966年からカラーバリエーションが7色に増えチームカラーにも対応するようになる。70's以降にバスケットボールシューズの役割を終えるとストリート向けのスニーカーになる。戦後、アメリカ文化が世界中に広がるとコカ・コーラやリーバイス、ハーレーと共にアメリカの文化を代表のアイコンになる。ビヨンセやリアーナなどファッションセレブやハリウッドセレブはもちろんのこと、スーパーモデルなど愛用者世界中に多数。
ナイキ社が2003年にコンバースブランドを買収。翌年だけでオールスターを200万足を販売。販売足数は累計10億足を超えるとも言われ、まさに世界一の売り上げを誇る世界で最も愛されているスニーカーである。まずなによりも手に入れたい永久定番品。
ALL-STARとはソール開発の歴史でもある
1917年に TARCTION SOLE はバスケットボール用の最初期モデル "NON-SKID" と "ALL-STAR" に使用が始まる。ソールにはBig"C"マークが入る。
1926 or 27年から同モールドの呼称が "ALL-STAR" TRACTION SOLE に変更。この頃から"ALL-STAR"が主力モデルに。
1928年に新型アウトソールを投入。親指の付け根に滑り止め、ウェスト部分がくびれ、フチ部分に模様が入る。
1929年に更なるマイナーチェンジで特許を取る。特許保有者はCONVERSE RUBBER COMPANYへ
現存する最古の "ALL-STAR" モデル。一度目の倒産以降に製造されたものでほぼ間違いはない。スターマーク+Big"Cマークと"サイドにベンチホールなし、フォクシングテープの模様から1930~32年前期に製造されたものと判別できる。
1916年にモールドソールの特許申請する。
"THE TRACTION SOLE" もしくは "CONVERSE NON-SKID OUTSOLE"(イヤーブックおよび広告で呼び名が違う)と呼ばれていた。ソールパターンは "CHECKERBOARD" パターンと呼ばれる。
1921年の広告には以下のように書かれている。
ALL STAR
Brown pressure cured Converse Non Skid outsole. Used by seven of Big ten team s last season including Purdue and Michigan
PROFESIONAL
Brown or white, felt cushion insole, smooth tread , worn last year by Princeton Pennsylvania Dartmouth Original celtics and many others
NON SKID
White uppers horsehide trimmed black Non Skid outsole made for players who prefer a white shoe
FEATHER WEIGHT
A special tournament shoe brown upper felt cushion insole nonskid outsole extra light
DODGER
White uppers black suction sole used and endorsed by Wisconsin and many eastern team
当時の区分は "THE TRACTION SOLE" を使用したデザインで
■ ブラウンアッパーが "ALL-STAR"
■ ホワイトアッパーが "NON-SKID"
■ 軽量版が "FEATHER WEIGHT"
またソール違いで
■ クレープソールタイプが "PROFESIONAL"
■ 吸盤ソールタイプが "DODGER"
■ フォクシングテープが一枚少ない軽量+吸盤ソールタイプが "PREP"
1926年か1927年から"THE TRACTION SOLE" の呼称が "ALL-STAR" TRACTION SOLE に変更になり、クレープソール "HICKORY" が登場する。
1929年から新型の "ALL-STAR" TRACTION SOLE を投入する。
■ 踏まず部分のサポートするオーソペディックアーチデザイン
■ 親指の付け根部分のグリップ力をあげたデザイン
1930年から更に改良型 "ALL-STAR" TRACTION SOLE を投入。この時期倒産しているので特許申請をやり直して作り直した可能性もある。
■ アウトソールに "NON SKID" の名称が入る
■ 親指部に"PIVOT BUTTON" と称したグリップ力をさらにあげたパターン
ピボットボタンにパターンがついているため30年以降のモデル
現存している最古のオールスターと同じモデル
1935年から現在のソールとほぼかわらないデザインに変更される。
1954年から外踏まず部分など若干の変更あり。これが現在も続くソール形状である。
アンクルパッチと言われているALL-STARを代表するアイコン。くるぶしの部分を保護するための円形の補強の名残のため内側のみに入る。販売最初期には"Big C"もしくは"CX"と言われるマークが入っていた。1928年より★スターマークが入る。第二次大戦後にリニューアルし、1946年からCHUCK TAYLORのサインとALL STARが入るようになる
1919年 BIG NINEについているアンクルパッチ。
CにCONVERSEとCラインの中にCONVERSE RUBBER SHOE COMPANYの文字入り。
文字の入り方で年代は別れている可能性もある。
ー 初期 上部に小さくCONVERSE RUBBER SHOE COMPANYのみ
ー 後期 上部にCONVERSE RUBBER 下部に SHOE COMPANYに分割
1920年の "NON-SKID" にもこれと同じマークが確認できる。
1921年 ALL-STAR自体もフォクシングテープの貼り方などデザインの改良をうける。
掲載が選手用カタログのため無印だった可能性もある
1925年 アンクルパッチも Big"C" マークに変更。
1928年 イヤーブックにスターマークが初登場。Big"C"なしとConverse Athletic Shoes(小文字)
広告にもスターマーク初登場。星印にBig"C"とCONVERSE ATHLETIC SHOEの文字。
1932年 広告ではスターマークにBig"C"がなくなるが書き忘れかもしれない(未掲載)
1940年 スターにBig"C"が復活している。
1941年 ALL-STARではないモデルにCHUCK TAYLOR(星なし)サインが入るようになる。
1946年 大戦後。初めてCHUCK TAYLORとCONVERSE ALL-STARの文字が入る。
1952年 ヘルシンキオリンピック米国代表用にCHUCK TAYLORが小さく星の中に。
1959年 ソール形状の変更時にCHUCK TAYLORの文字が再びスターの外に出る。
1962年 現在のマークとほぼ同じタイプになる
※ Big "C" LINE (Cの真ん中にXが入っている) は、最初期の1917年から使用されるコンバース社の初期マーク。
※ CHUCK TAYLORは1934年に商標登録されている。
1924年に特許申請。
当時のバスケットボール用シューズは、激しい運動から足首を守るためハイカットの商品しかなかったが、アキレス腱保護のため形状変更した特許を1926年に取得している。1925年のイヤーブックにおいて踵部があがっていることが既に確認できるが、1928年の新型ソール投入時に本格的にアッパーの仕様変更した可能性が高い。現在のALL-STARでも踵の部分が少しあがっているのはこの名残り。JACK-STAR HI や PRO-LEATHER HI の踵部分がそり上がっていることでもその影響が見れる。
1935年にカナダ出身のバドミントンチャンピオンだったJohn Edward "Jack" Purcell (ジャック=パーセル)が開発にかかわったシューズ。踵マークの「青ヒゲ」とつま先の一文字「スマイル」が特徴。
ジャック=パーセルが開発したシューズは1930年代にシャトルやラケットなどの商品開発のアドバイザリー契約をしていたA.G.スポルディング社から発売される。当時バドミントン関連の道具を研究開発していた彼自身、1933年にバドミントンの世界王者に輝くと、1935年にシューズのグリップ力と機能性を求めて、B.Fグッドリッチ社にシューズ制作を依頼(グッドリッチ社がスポルディング社の外注先の可能性有)。これが後のジャックパーセルデザインの原型になる。スポルディング社から販売されるグッドリッチ製シューズを履いたジャック=パーセルは、1945年の長期間にわたり一度も負ける事は無かった。
その後、引退したジャック=パーセルのシューズはそのまま継続販売され、1952年にようやくスポルディングとのライセンスが終了することでB.Fグッドリッチ社へ完全に移行する。彼が引退したことでの販売戦略上の理由もあるが、当時としてはかなりの高性能シューズだったためテニスやスカッシュなどバドミントン以外のプレーヤーに愛用されることになる。
1972年に当時のコンバースの親会社だったエルトラ社が、売却を検討していたBFグッドリッチ社の靴製造部門を買収し、その事業部はコンバースに統合 "JACK PURCELL" "PF FLYERS" ”PF CONVERSE”がコンバース社から販売されることになる。しかし1975年、B.Fグッドリッチ社の買収に関して連邦裁判所から独占禁止法違反の判決を降されグッドリッチのブランドであった"PF.FLYERS"の商標はブルックフィールドアスレチック(Brookfield Athletic Shoe)に売却することになる。"PF.FLYERS" ブランドは、1984年ハイド・アスレチック社(Hyde Athletic)1991年LJO社(LEIF J OSTBERG INC.)2001年からはNEW BALANCE社が所有している。
ジャック=パーセルはその後クラシックタイプスニーカーとして数年に一度必ずブームが再来することになる。ジェームス・ディーンとニルヴァーナのカート・コバーンが大変愛用していたのは有名な逸話。現在もComme Des Garçonとのコラボなど常に話題性には事欠かないシューズである。
B.F.Goodrich社により、1933年に機能的なインソールのシステムとして「Posture Foundation」(米国特許番号1,938,127)が開発・特許登録される。「Posture Foundation」とは「姿勢の基盤」という意味で、インソールの内側に7度の傾斜を施すことにより体重を足の外側に促す事で足の疲れを軽減し理想的な姿勢を保つという画期的な機能をもつインソール。
ジャックパーセルの青ヒゲのヒールラベルは、この7度の傾斜を図案化したもの。
スマイルと呼ばれるジャックパーセルの代表するアイコン。
つま先を上部から見ると笑っているように見えることからついた愛称。
上記のイラストは、1930年のまだジャック=パーセルと契約前のカタログに掲載されているA.G.SPALDING社のバドミントン用のシューズ。バドミントン黎明期のこの時点でスポルディング社が専用シューズを作っていたことがわかる。この数年後 (BF.GOODRICHに靴を作らせたといわれる1935年直後) カタログにジャックパーセルのシグニチャー入りラケットが登場するが1934年あたりまでこれと同タイプを履いていた可能性は高い。
つま先のみカラー違いのフォクシングテープが巻いてあり、これこそスマイルデザインの原型と思われる。
1940年にテニス専用シューズとして誕生。多くのテニスプレイヤーに愛用された。
テニスの歴史はバスケットボール以上に古く、コンバースとして最初に発表したスポーツシューズも、1915年のテニスシューズといわれている。この当時から"NON-SKID"という呼称はすでに多く使われていた。また内羽根スタイルのデザインも黎明期のスポーツシューズデザインとしてはポピュラーなデザイン。
「近代テニスの父」ジャック・クレーマー(John Albert "jack" kramer)との契約はコンバーステニスシューズに最初の黄金期をもたらすことになる。
70年代後半からテニスシューズとしての役目を終え、カジュアル用シューズになってからは、オールスターとともにカラーバリエーションも増殖。80年代以降はBMXライダーやスケートボーダーに愛されることになる。
戦時中の1942年より、当時ゴルフやテニスで革新的な道具を製造していたWilson社と提携。この2社は”ラケットはウィルソン、シューズはコンバース”という戦略を展開していくことになる。
男子シングルス部門で3回・男子ダブルス部門で6回・混合ダブルス部門で1回の優勝を挙げる活躍をした「近代テニスの父」ジャック・クレーマー(John Albert "jack" kramer)と契約。この後、60年代までコンバーステニスシューズの第一次黄金期を迎えることになる。そしてこの2社の蜜月の関係は1976年まで続き、後にクリス=エバートやジミー=コナーズなど数々の天才を生むことになる。
60年代にはスキッドグリップのみだったテニスカテゴリーも4種類に増えている。
アッパーとソールの組み合わせによって名称が違う。
JACK STAR / LETHER ALL STAR
1969年発売。STAR & BARS(スター&バーズ)の愛称でも知られているこのモデル。
60年代中盤、当時勢力を伸ばしてきたアディダスフランスのレザー製のシューズ("SUPER GRIP"など)は、選手から「"ALL STAR"よりもフィットし安定する」という評価を得ていた。
30年代からレザートップのアッパー("LEATHER ALL-STAR"など)にチャレンジしてきたコンバース社だったが、キャンバス "ALL STAR" の完成度があまりにも高くまた当時90%以上のプロ選手に着用されていたという事実もあり、このレザーアッパーへの対応が遅れてしまう。
1969年のNBA開幕戦。当時トップの人気チームであったボストンセルティックスの全ての選手がアディダス社の"BLACK STAR"(か"GREEN STAR")を履いたことが決定的で、ここからNBAのシューズはレザー製のものに即ちアディダス社にシェアを奪われていくことになる(この年セルティックスはNBAファイナルを制する) 。そこでコンバース社も緊急で新型レザーアッパーを開発しなければならなくなる。それがこの"LEATHER ALL STAR " 通称 "JACK STAR" である。
デザインの特徴である切り抜かれた星と2本の補強ライン "STAR & BARS " は明らかにアディダス社のスリーストライプを意識していることが伺える。コンバースがレザーアッパーに変更していく過渡期商品のために数多くの微変更が加わっている。特にバルカナイズド製法の高圧釜にレザーが対応できないため、最初期はコールデットセメント(セメント圧着)製法だった。
1969年 "LEATHER ALL STAR" が発表される。
1970年 カタログ初掲載。この時点ではまだアディダス製品と同じセメント製法だった。
この年の後半あたりからバルカナイズド製法が採用される (後期型)
1971年 "SUEDE LEATHER ALL STAR"が登場。
1972年 "LEATHER ALL STAR HI "が発表される。
カラーバリエーションも7色に増えたがこの年で製造中止になってしまう。
長年続いてきたストーンファミリーからエルトラ社に経営権が移った時期と重なるため (1971年)ため、経営方針の変更が行われた結果、この時点でレザータイプが開発中止になった可能性もある。
( BF.GOODRICHとの合併も影響しているかもしれない )
ONE STAR / ONE STAR SUEDE
1974年発売。80年代の復刻版がでるまで幻とされていた伝説のバスケットボールシューズ。スターマークのみの非常にシンプルなデザインだが、当時として最高級のレザーを使用しておりコンバース社の中でも最高峰のシューズだった。現在はその復刻版が日本企画の元に発売されている。
"JACK STAR" が製造中止されて2年。その間にNBAやABAなどのプロバスケットボールプレイヤーのほとんどがレザー製のシューズを着用するようになってしまう。それはアディダス社のシューズがあまりにも有能なシューズだったからに他ならない。また70年代はプロスポーツとしてはバスケットボールが全米一人気のあるスポーツであったが一方で空前のジョギングブームでもありいかにアディダス社が米国市場に攻勢をかけていたかがよくわかる。当時の全米No.1のメーカーであったコンバースもこれに対応していくように更なる商品ラインナップの拡充をしていくことが必要になってくる。
そこで1974年に誕生したのがこの"ONE STAR"である。
質の高いスムースレザーや柔らかいスェードを採用したこのシューズは当時の技術で最高の品質で作られており初期はNBAプレイヤーに愛用された。エルトラ社に買収されたコンバース社は1971年にランバートンに工場を新設するが、もともとここはBF.グッドリッチ社の主力工場(ジャックパーセルなどを作っていた)であり、当時のコンバースよりも技術力は優れていたと言われている。"ONE STAR" はここで作られ始めた可能性もある。
しかしサイドの補強の甘さとライニングの不評もあって結局 "SUPER STAR" には太刀打ちできなかった。更にバルカナイズド製法よりも簡略化できながらも高性能なセメント圧着製法に時代が流れていったこと、アメリカ市場に大量に流入してくる日本製などの低コスト商品への対応などからこの "ONE STAR" はわずか2年でその生産を終えることになる。そして時代はシェブロン&スターへと変わっていく。その後1984年に日本製(ムーンスターが生産)として復刻されている。
1970年 "STAR & BARS"のセールスマンサンプルとして"ONE STAR"が企画される。
1974年 "SMOOTH LEATHER ALL STAR" "SUEDE LEATHER ALL STAR"として発売される。
スェードも全7色展開でチームカラーにも対応した。
1975年 生産中止。
1984年 日本企画で復刻される。スェード版は米国で復刻される。
1976年発売。当時の正式名称は "ALL STAR PROFESIONAL BASKETBALL"。ドクターJモデルとも言われる。スターとシェブロン(くの字)の組み合わせは、エルトラ社に買収後のコンバースが発表した新ロゴデザイン。
1973年あたりになるとNBAのプロ選手の85%がアディダス社のスーパースターへ移行してしまっており、もうキャンバストップとバルカナイズド製法の"ALL- STAR" では性能が追いつかなくなってしまう。そこでアディダス社の"SUPER STAR"に習って、レザーアッパーとコールドセメンテッド製法(セメント圧着製法)にサイドステッチの組み合わせで強度を上げたこのモデルが発表される。シューズとしての完成度は非常に高く多くのプレイヤーに愛用された。そしてそれまで慣習のように選手が"ALL-STAR"を選んでいた時代のコンバース社と違い、このモデルにおいてある選手と契約しプロモーションをかけたことが非常に大きかったと言える。
彼の名前をジュリアス=アービング (Julius a "Dr.J" Erving) 。彼のプレーはまるで重力から自由になったかのような空中での技を披露、豪快なスラムダンクを決めバスケットボールを芸術の域にまで高めたと言われている。後のマイケル=ジョーダンやコービー=ブライアントなどのスラムダンカーの系譜は彼のプレーにあると言っても過言ではない。
彼とコンバース社は契約は、当時、スラムダンクに憧れた多くのアメリカンキッズにスター&シェブロンを履かせることになる。
1976年 プロユースに販売。シェブロン前後にベンチホールあり。
ヒールパッドは5角形カット。OXはヒールパッドなし。
1977年 ベンチホールが7つになる。踵にスターマークなし
1979年 新ロゴが踵に入る。
1982年 踵パッドがT型になる。
1986年登場。Y字型の補強 "Y-BAR ANKLE SUPPORT SYSTEM" が特徴。機能性に加え13色という豊富なカラーバリエーションを揃え、その後世界的に400万足を売り上げる大ヒットにモデルになる。
コンバースはこの時代にボストンセルティックスのラリー=バードとロサンゼルスレイカーズのマジック=ジョンソンの二人を起用。トリッキーなパスや正確無比なシュート。アディダス社の"SUPER STAR"へ反撃攻勢に出る。この時代に "PRO LEATHER" "PRO STAR" "STAR TECH" に続くモデルとして発表されたこの "WEAPON"は空前の大ヒット商品になる。
当時のストリートでナイキ社の最大のヒット商品となる "AIR JORDAN" に対抗できた唯一のモデルでもある。
チャールズ=グッドイヤーの加硫プロセスを発見以来、多くのゴム工場に特許のライセンスを提供することになる。その結果ボストン近郊をはじめ米国東部には多くのゴムメーカーが創業することになった。
1853年。マーキス=コンバースの親戚にあたる、エリシャスレイド=コンバースと兄ジェームズはボストンのモールデンにBOSTON RUBBER SHOE COMPANYを結成。同社は冬のスラッシュ用ゴム靴、ゴムオーバーシューズを製造する。3,500人もの従業員を抱えるまでに成長し、モールデンで最大の雇用先となった。その功績も認められ1882年エリシャはモールデンの最初の市長に選出される。
当時、マーキス=コンバースはボストン最大手の百貨店にてゼネラルマネージャーとして働いていた。その親戚の成功をふまえゴム産業の大きな可能性を感じた彼は、ビーコンフォールズラバーカンパニー(Beacon Falls Rubber Shoe Co.)でマネージャーとして働き始めることになる。そこが当時東海岸では最も勢いのあったU.S.ラバー社 (KEDS) に吸収されることになると彼は自分の会社を始めることにした。
※ビーコンフォールズの第二工場だったモルデンの工場がUSラバーへの吸収に反対して独立した可能性もある。
1908年11月17日。マサチューセッツ州モールデンでマーキス・M・コンバースが創業。
マーキス=コンバースは250,000ドルの設備投資と15人の従業員で新工場を始める。降雪量の多いマサチューセッツ州の湿地帯などでも使用可能な高性能ラバーシューズを製造。1910年には350名まで増員、ゴムブーツとシューズを日産4000足まで増産する。
ライバルのU.S.RUBBER社ではテニス用シューズ”champion”がすでに発売されている。
デザイン的にも酷似しているので、1911年にはテニスシューズを製造していたとも言える。
→1909年よりテニスシューズは製造。
1915年(1913年ごろとも言われている)。春夏に需要が落ちるラバーシューズの穴を埋めるためにテニスシューズを製造開始。売り上げが倍増する。これがコンバース初のスポーツ用シューズになる。先行メーカーの KEDSやSPALDINGのテニスシューズに酷似している。内バネのスタイルはこの時代のスポーツシューズデザインの流れ。
この年には、新興勢力としてライバル関係にあったタイヤ製造のファイヤストーン社がシューズ工場を買収しスポーツシューズを生産始めたことに対抗し、自動車用タイヤ (CONVERSE TIRES) の生産始める。
"BIG NINE" とは「9つの特徴を持つ」と言った意味。
NINE BIG POINTS OF "BIG NINE" SUPREMACY
1 Leather ankle patch (originators)
2 Real horsehide trimming
3 Double stitching
4 Leather lacing
5 Cork innersole cool in any weather
6 Fine duck Uppers and lining
7 Foot form last
8 Big C sole of tempered rubber and plenty of it
9 Reinforced toe and foxing
確実に確認できるのは1919年からだが"NON-SKID"と兄弟モデルという書き方からすると1917年かそれ以前にでた可能性もある。内バネが "Big Nine" 外バネが "NON-SKID" & "ALL-STAR" という区分け。CX=Big"C" ロゴが、1916年に商標登録されていることからも、発売開始は1916~1919年あたりのどれかと思われる。※1916年の写真に存在が確認できた。
"NON-SKID" (※ALL-STARの色違い)are brother of the famous "Big Nine", with all the Nine big points of supremacy
ー "NON-SKID"は"BIG NINE"の兄弟モデル
Scout for the store that sells the "Big Nine" family.
ー "BIG NINE"ファミリーを販売しています。
これは当時 "BIG NINE" の方が知名度があったか、会社の戦略商品だったため積極的に広告を出していたかどちらかと思われる。
『LOOK FOR THE BIG "C"』はこの時代のキャンペーンコピー
最古のコンバース。
1923年以降のモデルとされている。モデル名は”NON-SKID”
1917年4月2日に伝説のシューズの製造始まる。
正確にはホワイトアッパーの "NON-SKID"と ブラウンアッパーの "ALL-STAR" を作り始めたということになる。1922年のイヤーブックに表記されているミシガン大学のバスケットボールチーム "Michigan Wolverines" の足下にはすでに1918年シーズンから"NON-SKID"が確認できる。1921年のシーズンには "ALL-STAR" を使用している。(翌年のイヤーブックに掲載の"FEATHER WEIGHT"の可能性もある)
まだこの時点では "ALL-STAR"はバスケットボール用シューズの1モデルにすぎなかった。
1901年インディアナ州ブラウンカウンティ生まれ。地元のコロンバス高校に進学。バスケットボール部のキャプテンを勤める。この頃コンバースのバスケットボールシューズを初めて使用したと後に語っている。
1919年に高校を卒業した彼は、かつてコンバースのライバルだったタイヤメーカーのファイアストーンが所有していたセミプロチーム" The Firestone Non-Skids"に入団。その後、当時の強豪チーム " NewYork "Original" Celtics" や " The Buffalo Germans" と渡り歩きながらプロバスケットボール人生を心から楽しんでプレーしていた。彼はこの頃にコンバースの履き心地の良さに惚れ込む。
1921年。シカゴ営業所を担当していた SR "ボブ" ペッツが、チャック=テイラーをコンバースのアドバイザリースタッフ兼セールスマンとして雇うことに決める。彼は"ALL-STAR" を急速進化させていくことになる。20年代以降、ほぼ毎年、オールスターがバージョンアップしていくのはチャック=テイラーが責任を持って開発していたからである。ステッチの場所の変更から始まり、つま先の補強やクッションヒールの採用、新型ソールの採用などその仕様変更は多数。
1930年代以降、テイラー自身がチームで率いながら高校と大学へ向けてバスケットボールクリニックを開催するようになり。彼自身が全米中のコーチや選手と知り合いになることができた。ちょうどこの頃ベルリンオリンピックでバスケットボールが正式種目に採用されたりと、ますますバスケットボールが人気スポーツになっていく過程で、バスケットボールシューズ=コンバースとなったのは、キーパーソンであるチャック=テイラーの尽力に他ならない。
40年代はバスケットボールが全米でもっとも人気のあるスポーツになる。この頃コンバースは"CHUCK TAYLOR"のサインが入った入門者向けに"BIG FIVE" などのシューズを販売するようになる。これは "消費者が「チャックテイラーの靴が欲しい」と言いだしたからだ" と後にコンバース関係者は語っている。そして1946年。NBAの前身であるBAAも結成され、ついに看板モデルの"ALL-STAR" にも彼の名前が入るようになる。しかしこれだけ貢献したにもかかわらず、彼の名前をつけるロイヤリティを要求することはなかったと言われている。
そして彼は1966年に引退した。その頃にはコンバースはシェアはNBAの中で90%にもなっていた。彼の業績を讃え1968年にバスケットボールの殿堂に選出される。
1969年6月23日に心臓発作のため67歳で永眠。
1922年 - バスケットボールの普及と、コンバース製品の販売促進活動として、この年から1983年までコンバース社よりイヤーブックが発行される
1929年。ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し世界恐慌の引き金となる。それまで経営努力を続けていたコンバース社だったが、この不況を乗り切ることができずに倒産する。その後、1838年に創業したホッジマン社 (Hodgman Rubber Company)の社長ミッチェル=カフマン(Mitchell B. Kaufman)に買収されるが翌年営業譲渡されたカフマンが死去してしまう。
この年に”Converse Rubber Co.”に名前が変更される
カフマン社の事業を引き継いだアルバート=ウェクスラー(Albert Wechsler)が全力で再建に尽くし、劇的に業績は回復していく。彼は1933年までコンバース社を所持することになる。
1931年に創業者のマーキス=コンバースが永眠する。
1933年。マサチューセッツの資産家一族であったストーンファミリーが経営に参画。
彼らはこの後 39年間にわたりコンバース社を経営することになる。彼らはケネディ家とも交流があり、世界大戦を挟んだ激動の時代に安定した経営ができたのは彼らのおかげである。
1936年。ベルリンオリンピック。「ヒトラーのオリンピック」とも呼ばれているこの大会で、バスケットボールが正式にオリンピック競技に昇格。カナダとの決勝を制したアメリカ代表チームは金メダルを獲得する。この選手団にコンバース社は "ALL-STAR" を提供している。
また"OLYMPIC ALL-STAR" と言うホワイトアッパーのモデルも投入している。これが現在最も人気のあるカラーである"ホワイト" (少しクリームがかったホワイト)の原型。
この3年後ドイツ軍がポーランド侵攻を始め、時代は戦火の炎に包まれることになる。
第二次世界大戦中コンバース社は A-6 ブーツとスニーカーの提供をしている。
1946年。NBAの前身BAA (Basketball Association of America) が発足。ほとんどのプレーヤーがキャンバスオールスターを履き、1960年代まではプロユースでもキャンバスオールスターの黄金時代が続いた。
写真は優勝したPhiladelphia Warriors。彼らの足下にALL-STARがみえる。
1940年。それまでバスケットボールのみのイメージが強かったコンバース社はスキッドグリップを発売。当時再び人気が出始めたテニス分野にあらためて進出することになる。
戦時中の1942年より、当時スポーツ業界で革命を起こしていたウィルソン社 (Wilson Sporting Goods Company) と提携。この2社はテニス部門で”ラケットはウィルソン、シューズはコンバース”という戦略を展開する。
1947年。男子シングルス部門で3回・男子ダブルス部門で6回・混合ダブルス部門で1回の優勝を挙げる活躍をした“Jake”という愛称で親しまれた「近代テニスの父」ジャック=クレイマー(John Albert "jack" kramer)と契約したことで、コンバーステニスシューズの第一次黄金期を迎えることになる。
”ウィルソン&コンバース”の組み合わせは後にクリス=エバートとジミー=コナーズという2人の天才をサポートすることになる。
クレーマーは1954年に背中の故障で引退することになるが、彼は1952年からプロテニスツアーの会長に就任。1968年の「全仏オープン」をきっかけにテニス界はプロ選手オープン化時代に突入、この後テニスは世界的に大ブームになる。彼はその功績が認められ国際テニス殿堂入り。1972年には現テニスの最高峰であるATP(Association of Tennis Professionals 男子プロテニス協会)の初代最高責任者に就任することになる。
『ウエスト・サイド物語』は、ロバート・ワイズとジェローム・ロビンス監督の1961年のアメリカ映画。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を元にした同名のブロードウェイ・ミュージカルの映画化作品。
当時のNYの少年ギャングをテーマにした映画で、このスタイルに憧れた若者は多い。スニーカーが市民権を得た映画とされている。
1964年に、以前買収されたホッジマンブランドを買収しアウトドア業界へ進出する。取り扱うアイテムが増え、ハンティング用のウェアやゴルフアパレルなどを販売するようになる。この買収でコンバース社は飛躍的な売り上げ拡大をすることになる。
1946年 ニューハンプシャー州のグラニットステイト工場を新設する。
80人の職人が"ALL STAR"の縫製にあたる。
1956年 グラニットステイトの工場では生産能力が追いつかなくなり
プエルトリコのコスタルフットウェアコーポレーションを新設。
1961年 マサチューセッツ州アンドーバーのタイヤーラバーカンパニーを買収。
1967年 メイン州ブレスクアイルに新工場を開設する。
1969年 ロードアイランドにあるブリストルマニュファクチャリーカンパニーを買収。
1970年 メイン州ノースバーウィッグに新工場を開設する。
1974年 ユーゴスラビアのアストラコーポレーションと生産契約をする。
この工場は後に月産6~7万足まで拡大する。
1971年。ニューヨークの投資会社であるエルトラ社 (The Eltra Corporation) が長年オーナーであったストーンファミリーから1700万ドルでコンバースを買収。
エルトラ社はこの後積極的な拡大路線をとることになる。1971年当時、自動車用タイヤに専念するために靴製造部門の売却を検討していたBF.グッドリッチのシューズ部門を2900万ドルで買収。"JACK PURCELL" "PF FLYERS"の2大ブランドを手に入れることになる。
60~70年代初期、CONVERSE / BF.GOODRICH / US.RUBBER (KEDS/PRO KEDS) の3社が、マーケットのほとんどを占有していたためこの買収に関しては後に大きな問題となる。1975年に連邦裁判所から独占禁止法違反の判決が下り "PF.FLYERS"の商標と"Posture Foundation"の機能は売却することになる。
エルトラ社の巨額の投資資本を背景にコンバース社は大きな内部改革をすることになる。
まず1972年にノースカロライナ州ランバートンに新工場 (ランバートン工場は元々BF.GOODRICHの所有でジャックパーセルを生産していた) をシャーロットには大規模なハブ物流センターを建設。また創業の地モールデンとアンドーバーにあった工場を閉鎖。ホッジマンブランドを売却。分割していた営業体制も統合されることになる。この一連の動きは、日本や台湾製の安価な商品の米国内への流入や、NIKE (ONITSUKA TIGER代理店時代)などの新興勢力への対応に起因しているとされている。
1975年より新しいコンバースのマークである"シェブロン&スター"が発表される。
エルトラ社買収後、新たなるマークが誕生する。ジム=ラバディーニ (Jim Labadini) によってデザインされたこのスピード感のあるマークは、この後数々の名作を生み出すことになる。
NBAの大スター ”Dr.J” ことジュリアスアービング。
70年代までアメリカにはプロバスケットボール団体が2つ存在した。ひとつは現在も続くNBA。もうひとつはABA (American Basketball Association)。 ABAのニューヨーク=ネッツで活躍していたジュリアス=アービング (Julius a "Dr.J" Erving)とコンバース社は契約。その後ABAはNBAに吸収されアービング自体もフィラデルフィアに本拠地を構える76ersに移籍。
ラリー=バードのセルティックスやマジック=ジョンソンやジャバーのいるレイカーズを抑え、1983年ついにファイナルを制す。通算成績3万点を超える選手は長いバスケットボールの歴史の中でもわずか6人しかいない。
アフロヘアの彼が決めるダンクシュートは芸術品に例えられ、その後のNBAにマイケル=ジョーダンをはじめ多くのスラムダンカーを生み出すことになる。
1979年、コングロマリッド企業であるアライド・ケミカルカンパニー (Allied Corporation) がエルトラ社を買収。コンバースを傘下に。
1982年にアライドエルトラ社がコンバース社を10億ドルで売却。当時の社員の尽力によりコンバースは親会社をもたない独立企業になる。
コンバース・インク (CONVERSE INC) に名称も変わる。
社内にバイオメカニカルラボラトリーができ、この後 "STAR TECH " や "MARVERICK" "を生み出すことになる。
80年代のNBAの黄金期。この時代を支えたのはマジック=ジョンソンとラリー=バード。80年にこの2人が入団して以来、その後10年のうち8回はどちらかのチームが優勝している。80年代のNBAはまさに彼らの時代である。
マジックジョンソン、本名アービンジョンソン。ニックネーム"MAGIC"は、高校1年生のある試合で36得点・18リバウンド・16アシストを記録するのを見た地元の新聞記者が名付けた。その後ミシガン州大に進学しNCAAを制覇。
ドラフト1位でLAレイカーズに入団。器用なマジックは当時最高のセンターだったカリーム=アブドゥル=ジャバーともに最高のコンビといわれ、入団1年目からチームをNBAチャンピオンになる。ノールックパスなどトリッキーなプレイやベイビーフック、ポイントガードからセンターまでこなす器用さは観客を魅了し、「ショータイム」「レイカーショー」と呼ばれるようになる。通算5つのチャンピオンリングを獲得。NBA50周年を記念した「歴代の偉大な50人の選手」に選ばれた。2002年に殿堂入りする。
ラリーバード。1956年12月7日に生まれ貧しい少年時代を過ごす。インディアナ大に進学するも中退。バスケをやるためにインディアナ州大に編入する。79年のNCAAの決勝で時に初めてマジックと対戦する。ここから2人のライバル対決が始まることになる。
NBAのボストン・セルティックスに入団。マジックを抑えこの年に新人王に輝く。その後3度の優勝に導いた。その卓越したパスセンスと、正確な3ポイントシュート、試合の先を読む能力がすばらしく史上最高のスモールフォワードの一人と言われる。現役時代には既に「伝説 (Legend)」と呼ばれていた。バードもまたNBA50周年を記念した「歴代の偉大な50人の選手」に選ばれる。1998年に殿堂入りする。
NCAA ノースカロライナ大学時代。マイケル=ジョーダンが "PRO LEATHER" "PRO STAR" を使用していた。これは大学とコンバース社が契約していたからである。しかし試合以外はアディダス社の "SUPER STAR" を愛用していたと言われている。
1984年開催されたロサンゼルスオリンピックの公式スポンサーになる。
1984年には、コンバース社はこの大会のために、ロサンゼルスオリンピック組織委員会(LAOCC)に400万ドル支払い、国営テレビの広告のために追加の350万ドルを費やした。 総宣伝費は1000万ドルに近づくほどの巨額の金額だった。
この大会代表にはマイケル=ジョーダンを始め、パトリック=ユーイング、クライド=ドレクスラークリス=マリンなど後の “DREAM TEAM" にも出場する選手達が数多く出場していた。
地道に広がっていたコンバース社のテニスシューズは人気のクリス=エバートとジミー=コナーズとの契約によって、テニスシューズの売上高が1983年に400%増加した。
ジミー=コナーズは、ビョルン=ボルグ、ジョン=マッケンロー、イワン=レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手。またクリス=エバート、愛称の「クリッシー」“Chrissie”もまた好敵手であるマルチナ・ナブラチロワととも女子テニス界を牽引した。この時期、世界的なテニスブームが巻き起こっていた。
また私生活においても、クリス=エバートとジミー=コナーズの2人は当時交際しており、世界ランキング1位同士のカップルは「テニス界のビッグカップル」として話題をさらっていた。(後に婚約破棄になる)この二人の履いたコンバースは当然話題になり必然的に大ヒット商品になった。
イリノイ州ベルビル出身。1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨。左利きでバックハンドストロークは両手打ち。4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPシングルスで男子歴代1位のツアー109勝。シングルス1243勝の大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録160週は2007年にロジャー・フェデラーが記録を更新するまで第1位だった。世界ランキング通算在位記録「268週」はフェデラー、サンプラス、レンドル(に次ぐ歴代4位。
アメリカ・フロリダ出身。Christine Marie Evert 、愛称のクリッシー。マルチナ・ナブラチロワとともに、1970年代から1980年代前半の女子テニス界を牽引した。全仏オープン女子シングルス7勝の大会最多優勝記録保持者であり、4大大会女子シングルス通算18勝は、ナブラチロワと並ぶ女子歴代4位タイ。彼女はWTAツアーでのシングルス通算勝利数154勝の歴代2位記録も保持している。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
エバートは“アイス・ドール”というニックネームで呼ばれた。彼女が「コート上では凍てついた氷でありたい」と発言したことに由来し、この名の通り冷静沈着で相手に隙を見せず正確なボール・コントロールに支えられたクレバーなテニスが彼女の強みだった。彼女は球足の遅いクレーコートを得意としており、クレーコートである全仏オープンで7勝を挙げる。エバート自身もフランスが好きであることから「パリの恋人」とも称されていた。
1986年。家具製造のコングロマリッド企業 "INTERCO"に買収される。もともとインターナショナルシューコーポレーション (International Shoe Company)であり、フローシェイムをはじめ靴ブランドも所有していた。この間、コンバース社は空前の売り上げを上げていたが、企業買収の渦中に巻き込まれてしまう。このINTERCOは1991年にチャプター11を申請、破産してしまう。これは当時としては全米で5番目に大きな倒産であった。その後投資会社をへて1994年ニューヨーク株式市場へ上場する。
"WEPON"の発表と、マジックとバードの活躍でバスケットボールのシェアは著しく回復することになるが、すでに80年代、スポーツシューズ市場はランニングシューズとエアロビクスシューズが席巻しており、それまで新興勢力であった "NIKE " と "REEBOK" に続く全米で第3位まで落ちる。 "ADIDAS" はフランスとドイツ本社の関係が悪化しており急速にシェアを落とし4位まで降下していた。
NIKEの"AIR"発表後に、時代はハイテクノロジークッションシステム競争に入る。
1988年。開発に2年以上をかけられた "ENEGY WAVE" が発表される。着地時の力を50%以上反発させることができるこの素材は "ERX" シリーズとして次々とコンバースの商品に投入されていく。
1992年。
バルセロナオリンピックに出場したバスケットボール男子アメリカ合衆国代表、通称ドリームチーム。現役のNBA選手が代表入りした最初のナショナルチーム。「この世のバスケットボールの才能の最高のコレクション」と評された。
金メダルを獲得。このバルセロナ大会におけるドリームチームの活躍が契機となり、バスケットボールの世界的な人気は高まっていった。
この時代、既にトップ選手のほとんどがNIKEが履かれていた。
Larry Bird ー CONVERSE BIRD OLYMPIC / U.S. PRO STAR MID
Magic Johnson ー CONVERSE MAGIC OLYMPIC MID / ACCELERATOR MID
Michael Jordan ー NIKE AIR JORDAN 7
Charles Barkley ー NIKE AIR FLIGHT LITE II MID
Patrick Ewing ー NIKE AIR FORCE 180 LOW
Robinson, David ー NIKE AIR BALISTIC FORCE HIGH
Scottie Pippen ー NIKE AIR FLIGHT LITE II MID
John Stockton ー NIKE AIR BALISTIC FORCE HIGH
Ewing, Patrick ー EWING ECLIPS
Karl Malone ー L.A.GEAR TURBO TECH CATAPULT
Clyde Drexler ー AVIA BASKETBALL911 MWXR
1992年。契約選手ラリージョンソンが新人王に。
マジックとバードが引退間近になったこの時代。長くバスケットボールを牽引してきたコンバースにとっても非常に厳しい時代に突入する。
"AIR JORDAN" をはじめとして多数の有名選手を抱えたナイキ社。そして"FREE STYLE"の大ヒットで米国市場を席巻はじめたリーボック社。特にアッパーにエアチャンバーを入れた"PUMP"の大ヒットにより、80年代ついに全米No.1までその後のし上がることになる。
コンバースはハイテク競争の中、流体力学を応用した"REACT"を開発。新人王を獲得するラリー=ジョンソンをCMに起用する。ラリー=ジョンソンがおばあちゃんに変装してダンクする"Grandmama" シリーズのCMは大いに話題になる。
また当時シカゴブルズと死闘を演じたフェニックスサンズのPGケビン=ジョンソンは攻撃的なPGとしてチャールズ=バークレー率いるサンズを支えた。オールスターゲーム3度選出。後にサクラメント市長になる。
ゴールデンステイトで契約選手であったラトレル=スプリーウェルは後にニックスに移籍後大活躍することになるが、チームが低迷する中監督と口論になり首絞め事件を起こしコンバースとの契約を破棄されてしまう。
話題は豊富だったが、この時代のコンバースの評価はナイキやリーボックに対して一貫してダサかったという人が多い。
流体力学を応用した、粘度のある液体と圧縮ガスをパッキングしたコンバースの新世代クッションシステム。ヒールサポートも含め、大容量で使用されたが結果的に重量が増してしまった。
1995年からはアキュポッドシステムという更に進化した形になって登場する。踵と前足部を繋げることで解剖学的に液体が動き足をサポートすると言う機能を持ったシステムであった。
1997年。悪童で知られるデニスロッドマンとコンバースは契約する。
NBAに於いて当時を代表する優れたディフェンダーであり、歴代でも屈指のリバウンダー(1992-1998で7年連続リバウンド王)。一方で髪を染める、全身にタトゥーを入れる、女装癖を隠さないなど独特なライフスタイルも話題を集める。マイケル=ジョーダン、スコッティ・ピッペンとともに3人はリーグでも最高のトリオと評され、シカゴ ブルズは後期3ピートを獲得する。
これがコンバースが最後に輝いた瞬間かもしれない。
1998年。ブレビン=ナイトと契約することになるが2004年のスティーブ=ナッシュに続くアシストランキングが2位になるまで、彼自身がジャーニーマンになっており、この契約は成功したとはいいがたい。
分子構造が小さすぎてパッキングが不可能とされていた窒素ガスを詰め込んだクッション。
ブーティー構造のアッパーでフィット感も素晴らしかったが人気は出なかった。
2003年にNIKEが米国コンバース社を3億500万ドルで買収。
NIKEの戦略により久しぶりにコンバース社はビッグネーム、ドウェイン・ウェイド(Dwyane Tyrone Wade, Jr)と契約する。彼はマイアミヒート所属で現在も屈指のシューティングガード。シュートタッチが非常に柔らかくシューティングガードとポイントガードを兼任できるコンボガード。2006年のNBAファイナルではファイナルMVPを受賞、2008-09シーズンには得点王。
この後NIKEの看板ブランドである"JORDANN BRAND"へ移籍する。
これを最後にNBAのビッグネームとは契約していない。
2001年に米連邦倒産法 / チャプターイレブン(Chapter 11)適用を申請し倒産。企業再建に日本の伊藤忠商事が資本参加
そして、現在月星との契約に至る。
次回は、コンバースとの独自論理を述べようと思っております。
そして今、世界で初のコンバース オールスターの壮大な
プロジェクトが始まろうとしている......
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